御厨神社

地域情報

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トライヤルウィ-ク 二見中学生

27年6月1日から6日まで境内の清掃に精を出しました。
写真は前々年度のです。

御厨神社の梅・3月6日

高年クラブ観梅会

27年3月8日(日) 余興・大正琴演奏

フリーマーケット

27年4月4日 土曜日 10時より16時まで行われた。

骨董市

ジャズコンサ-ト・イン御厨神社

明石二見ライオンズクラブ マラソン大会

平成26年11月3日 明石海浜公園で、快晴の下行われた。

ライオンズクラブ・二見町高年クラブ・御厨神社草刈清掃

平成27年6月7日午前8時より約40名で行い、清々しい境内になりました。

明石二見ライオンズ 花見会

橋本関雪が若かりし頃住まいし、絵を描いた白砂荘

橋本関雪は、大正の初め頃二見町に別荘を建て家族共々よく利用した。関雪の父・橋本海関は、明石藩の漢学者であり、藩の学校・敬義館で教えるとともに、江井ヶ島の郷学でも教えた。海関の教え子は数多いが、その中に二見の素封家尾上氏の夫人がおられた。その事がきっかけとなり、「関雪さんの別荘」が誕生したのであろう。

明治維新後、海関は神戸に移り、御影の師範学校や神戸中学校で漢学を教えた。
この頃の教え子に佐用郡上月町出身の和田性海師がいた。性海師は、明治29年3月に上神して神戸中学校に入学した。それから2年間、楠町5丁目の真福寺教会所に寄宿し海関に漢学を学んだ。
その後、淡路千光寺住職のあと高野山に入り、大学学長、大僧正、真言宗管長の要職を歴任された。
海関は、池田フジと結婚した。フジは武家の娘であり書、絵、歌、琴等に秀でた才媛で美人であった。

明治16年11月10日、神戸の坂本村(現中央区楠町)で男子が生まれた。これが後の橋本関雪である。

関雪が生まれた家は、神戸市中央区の大倉山の麓にある広巌寺の南にあった。この広巌寺は、南朝の忠臣・楠正成が湊川の合戦に敗れて自害した寺という伝承があり、今も「楠寺」と呼ばれている。この寺は安養寺と並んでおり、その南に大小二つの池があった。関雪は幼い頃この池でとんぼ捕りなどをして遊んだ。

今はその池の跡形もなく、道路を隔てて大倉山公園になっている。公園の西南の隅に昭和52年5月、「関雪先生の碑」が建立された。(地下鉄「大倉山」駅下車、すぐ上。)関雪は、絵画、書、詩、文章、造園等多芸多才であったが、父海関、母フジの両親から芸術家の血を受け継いだのである。

この頃、清国(中国)は、欧米列強の圧迫を受けて亡国の危機にあり、憂国の士が日本に亡命・留学していた。国際港都神戸には、多くの清国人が居留しており、これらの清国人は、漢学者・海関の家を訪ねて教えを乞うた。 海関は、清国人のために数多くの書物を翻訳した。広く読まれたのは、米国繁昌史、仏蘭西革命史、日清戦争実記などであった。関雪は、幼い頃からこれら清国人と接しながら成長した。それで中国への関心を高めたのであろう。生涯、三十数回~四十数回も中国を訪問している。

関雪が五歳の頃、母フジが関雪と妹のチエを残して家を出た。その真相は謎に包まれているが、奇行の多い海関に愛想をつかしたという説とフジに愛人ができたという説がある。ともかく、これが関雪の生涯に暗い陰を落とした。

関雪の娘で歌人の高折妙子さんは、「父 関雪のこと」 という文章の冒頭に「関雪は母のない子であった」と書いておられる。 関雪は、近くの湊川神社や広厳寺などで一人でよく遊んだ。小動物を愛し、五、六歳の頃から馬や牛の絵を描き始めた。これは、母のない孤独な少年の切ない心情の現れであろう。 父海関は、皇室崇敬の念が厚い人であった。ある時、明治天皇の不予(御病気)を報じた新聞を家族の者が踏みつけた。これを見た海関は「何ごとぞ。畏れ多い」と叱りつけた。この思いは、関雪にも引き継がれた。

大正2年2月、明石に住んでいた父海関に妻子を託し、かねてから念願の中国への旅に出た。関雪は、京都の銀閣寺の近くに邸宅を建て大正5年に移り住んだ。
自分の雅号の白沙村人にちなんで‘白沙村荘”と名付けた。

その頃、二見町の御厨神社の東南に別荘を建てた。二見が選ばれたのは、二見の人達の支援があったからである。 この別荘は、南に青海原が果てしなく広がり、眼下には海水浴場があるという景勝の地にあった。
関雪は京都画壇との対立を逃れ、二見の別荘に安息を求めたのであろう。